何度もリピートしちゃう沖縄の旅。もっと沖縄のことを知って沖縄通になりたい!

そんな沖縄好きにオススメな楽しみ方が、沖縄のジャズ音楽。

150年前まで日本ではない別の国、琉球王国という国家だった歴史背景からも分かるとおり、本州とは異なる「独自性のある」沖縄本島の素材や文化がたくさんあって非常に魅力です。

B級スポット好きの心をくすぐるスポットに現れる音楽資料館や、女子のファンも多いフォトジェニックなレコードカフェなど、沖縄で音楽の楽しみを味わってみませんか?

 

島唄で培ったリズム感、米軍統治=英語力。
そして「ハイサイおじさん」から細野晴臣へと文脈の繋がるポップ・ミュージック史と絡めて探っていきます!

 

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沖縄伝統音楽とジャズの歴史

ジャズと沖縄伝統音楽との融合『ウチナー・ビート』

第一次世界大戦以降に日本にやってきたなんだかよくわからない音楽は、船の楽士をはじめ、外国人演芸一座の巡業や外国人の楽団、あるいは映画のワンシーンに紛れ込んで流入してきます。

サックス、バンジョー、打楽器を中心としたそれまでのオーケストラでは見られない楽器で編成されていたそれは「ジャズ」と呼ばれました。

1950年代から1960年代 沖縄がアメリカだった頃のミュージシャンたち

沖縄のジャズ史は、米軍基地内の演奏からスタートします。

米国統治下の基地の中のクラブ。そこで演奏していたのが沖縄のミュージシャンたち。

 

沖縄のジャズには、本土とは違う風景があります。

 

まずは、沖縄の伝統的な音楽

独特の跳ねるリズムがある島唄・三線はジャズのスウィングと通ずると思いませんか?

もともとすでに身体に染み付いているのかもしれませんよね。

本土か沖縄のバンドか、聴いたらすぐに分かりますね。(ジャズピアニスト、屋良文雄さん)

 

米軍統治=英語という磁力。

沖縄ジャズの中でスウィングジャズと共に、ボーカルというのは独特な存在です。

要するにジャズを持ち込んだ米軍が、英語から教えたのです。

米軍統治27年間は「アメリカ世」と言われています。

その中で「沖縄の宝」とも言われるジャズシンガーが誕生し、育ちました。

パティ・ペイジの「ワンワン・ワルツ」など二、三曲歌ったら米国人は大喜びでしたね。最初にお金を貰ったのはニドルでした。ポピュラーソングですか、英語の歌はみんなジャズだと思っていました。(ジャズシンガー、与世山澄子さん)

 

高校生でプロデビュー後、人間国宝から三島由紀夫賞作家など、名だたる著名人が絶賛し、60歳を過ぎてテレビ番組「情熱大陸」にも出演。迫力のある歌声で人々を魅了する伝説の歌姫であるジャズシンガー、与世山澄子さんの話しによると、

小学校の時には授業に英語がある環境でした。

歌を歌い始めてからは発音を含め、米国人からも徹底的に教え込まれます。

ギャラを貰うプロのシンガーとしてクラブのステージに立つには、演奏もさることながら、歌はごまかしがきかない。

英語のジャズナンバーについては「毎回が真剣勝負みたいなもので、クラブで鍛えられました」。

 

アメリカの軽音楽や日本の流行歌をメインに演奏したジャズは人気を博し、ミュージシャンは県知事よりギャラが高かったとか。

 

基地内のジャズ演奏

米軍基地内には3つの娯楽用クラブが存在しました。

「将校」「下士官」「新兵」。それぞれの基地に、階級に分けられた3つのクラブがあり、

沖縄全体では五百人ぐらいのバンドマンがいました

 

主には日本人とフィリピン人。

フィリピンのミュージシャンの技術は、沖縄より五十年以上進んでいると言われており、

日本のミュージシャンは、楽譜の読み方など多くのことを学びます。

沖縄のベトナム戦争バブル

ミュージシャンと米軍とは個人契約で、一年ごとに契約更新がありました。

「アドリブをしないと給料はあがらないぞ」といわれ、レコードを擦り切れるほど聴いて勉強した楽器プレイヤーも。

月給は三百ドル。当時の公務員の五倍でした。

 

一晩だけでちょっとした家が一軒立つほどの収益があり、それが毎日。

閉店後に床に落ちたドル札をかき集めて、ドラム缶にも入りきらず足で踏んだという伝説も。

当時の儲かりようはミュージシャンの間で「猛烈なドルの雨が降った」と表現されます。

ベトナム戦争の敗北によってバンドマンへの米軍予算は大幅に激減

1972年5月15日、沖縄は日本に復帰しました。

戦後27年続いた米軍統治が終わり、新しい歴史を開いた沖縄。

基地内で演奏する日本人バンドマンは全員、解雇され、基地外へ。

 

1975年、復帰記念の国際海洋博覧会を呼び水に、観光、リゾート地として開発が進み、

ジャズミュージシャンステージは基地から離れ、ホテルのラウンジやライブハウス、パブなどが主舞台になります。

 

これらを第二世代と呼び、沖縄ジャズシーンは、世代交代の時期に入ります。

 

 

沖縄音楽とロックのカルチャー的文脈

さて沖縄には伝統的な音楽とリズムがあるわけですが、

日本のポップ・ミュージック史における沖縄の立ち位置はどうでしょう?

 

沖縄発の音楽が全国的に認知された文脈は、なんといっても、

72年の沖縄返還後に発売された、喜納昌吉&チャンプルーズの「ハイサイおじさん」(76年)が挙げられます。

 

喜納昌吉はカウンター・カルチャー時代のロックに沖縄民謡を取り入れた人とされていますが、

この”発見”がされる前に、すでに本土のシャズ評論家の間では、

日本文化園のまわりで、沖縄の音楽だけがラテン音楽に直結するくらいスウィングする」と指摘されていました。

「ハイサイおじさん」のカバーが収録された、久保田麻琴と夕焼け楽団『ハワイ・チャンプルー』(7511月)を、共同プロデュースし、何故かドラマーとして参加したのが細野晴臣です。

細野晴臣に沖縄音楽を紹介し、欧米ロック一辺倒だった日本のシーンに南洋サウンドを持ち込んだのが久保田麻琴でした。

 

細野はソロ作『トロピカル・ダンディー』(756月)をつくる直前に、沖縄を旅していた久保田から「ハイサイおじさん」を教えてもらったと証言しています。(HOSONO百景より)

 

すでに沖縄では知られていたハイサイおじさんを聴き、細野自身は『泰安洋行』(76年)や『はらいそ』 (78年)でも沖縄音楽にアプローチしました。

いわゆるトロピカル3部作です。

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『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』の3部作は、日本ロック史に変革をもたらしました。

『トロピカル・ダンディー』の発売年に久保田麻琴と細野晴臣とが共同プロデュースで制作した、日本ロックの歴史的名盤が『ハワイ・チャンプルー』です。

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『ハワイ・チャンブルー』は、沖縄をはじめカリブやハワイ、アメリカ南部などの様々な土地の音楽の要素も入った、カルチャーのトリップ感たっぷりのごった煮です。

その流れと関係あるのか知りませんが、志村けんのだいじょうぶだぁ(フジテレビ 87~99年)で「変なおじさん」というハイサイおじさんの替え歌がありましたよね。

ソウル・マニアの志村けんらしいアプローチです。

 

ジャズの聴けるオシャレなお店

続いて、今回の参考にしたお店を紹介していきます。

沖縄市音楽資料館おんがく村

コザにある、B級スポット好きの心をくすぐるスポットに現れる音楽資料館。

楽譜や映像の収集物がリクエスト出来て面白いです!

ポスターやパンフレット、チケットなどが見られます。

 

沖縄市は『チャンプルー文化』。

JAZZは飲みながら聴くのが一番いいよね~!といった声が映像から聴こえてきました。

 

六曜舎

沖縄市銀天街にある老舗喫茶店「六曜舎(ろくようしゃ)」は、ジャズファンの間では知らない人はいない程の名店です。

絶品のナポリタンやグラタンが名物。

 

周りの看板を見れば日本語に英語、見慣れない異国の文字も。

ドル表記のケバブ屋のお姉さんは長い脚を絡ませているし、

カフェバーでお兄さんが一人で飲んでる姿はバチバチにイケてて、吸い込まれそうになります。

 

そういえば沖縄で女性がTinderをやると、マッチングの9割が外国人という噂。(やったことはないけれど。)

なんとも不思議なトリップ感です。

 

たそかれ珈琲

女子のファンも多いフォトジェニックなカフェ。

JBLのスピーカーでジャズ史上に輝く名盤にときめき、JAZZ喫茶のようなレコード盤の面出しが最高です。

ゆいレールの下で、ゆったりした雰囲気が良く、沖縄の作家さんの器も素敵。

控えめに言ってサブカル派の天国ではないでしょうか。

 

おいしい自家製ジンジャーエールとレモンケーキに出会いました。

 

参考文献「沖縄ジャズロード」「TRANSIT」 : 沖縄県立図書館 

 

さいごに

東京のシーンから見れば遠く離れた沖縄ではありますが、沖縄を中心とした場合、本土だけでなく、東南アジアへと視野が広がるのが、沖縄の「チャンプル・ジャズ」の可能性です。

米軍基地から観光地へと移った第二世代による沖縄ジャズシーン。

新しい世代がどう開拓し、創造していくかは興味深いですね。

 

\日本のポップ・ミュージック史における沖縄音楽の融合を物語にした、プレイリスト/

 

 

maeda saki :  ライター(編集長)

東京都品川区うまれ。作曲家、ドラマー、RECエンジニア。
3歳より「心から出て心に還る音楽を」という教えのもと、裸足で畑を耕すところから培う教室でクラシックピアノを習う。また、キャンプ生活などを通して美術をする教室にも通うなど、自然とのふれあいの中で学び、育つ。国立音大附属中学ピアノ科を経て、国立音大附属高校で学内オーケストラに参加。
国立音楽大学作曲科へ入学、中学から始めたドラムに没頭する。バンド活動でデビューを経て国外や離島での演奏にモデルチェンジ。ロンドン、ベルリン、ニューヨークで演奏を積む。
25リットルのリュックとドラムスティックで世界一周後、旅と音楽と食を繋ぐレーベル「studio iota label」を設立。音楽療法など9つの事業を展開中。牛乳とじゃがりこが好き。

 

 

 

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【studio iota label】
日本のレコード会社 studio iota LLC.では音源の企画制作・流通販売、WEBコンテンツの発信、企業のWebライティング、動画BGM製作、アーティストやお店などの写真撮影、作曲・編曲事業、レコーディング・ミックス事業などを行っています。
【ウェブサイト】http://studio-iota.com/
【X(Twitter)】https://twitter.com/nagareruiota
【note】https://note.mu/nagareruiota

 

>「心から出て心に還る音楽を」をモットーに、粋な義理人情を大事にし、 旅に似合う音楽を提供し続けていきます。

「心から出て心に還る音楽を」をモットーに、粋な義理人情を大事にし、 旅に似合う音楽を提供し続けていきます。

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